産後うつ病に罹ったママの子育て体験談(Fさんの体験談)

今回は、ママ友のFさんの体験談をご紹介しようと思います。

私が第1子を妊娠したのは、結婚してから半年後の28歳のときでした。

妊娠中、つわりを除けば経過はいたって順調で、瞬く間に臨月を迎えました。初産は出産予定日より遅くなりがちと言われていますが、毎日40分の散歩と部屋中の雑巾がけを欠かさず、とにかく動き回っていたおかげで、予定日より1週間早く陣痛がきました。

しかし、運動は十分足りていたにも関わらず、超難産で43時間も陣痛に苦しむ羽目に。ようやく子どもが産まれたときは、「やっと産まれた…」となかば放心状態で「喜び」や「感動」といった感情までたどりつきません。産後の処置のために分娩室に2時間ほどいた後、保育器のなかですやすや眠っている我が子(女の子でした)と対面しましたが、その寝顔を見た瞬間すべての緊張の糸が切れ、気を失ってしまいました。

後から思えば異変は産院にいたときから始まっていたのです。産後2日間は母子別室で、看護婦さんが娘の面倒を見てくれました。夜中にふと目が覚め、お手洗いに行ったときに、ちょうど看護婦さんが娘にミルクを飲ませている様子を見かけたのです。しかし、私はその部屋の前を素通りして、自分のベッドにもぐりこむとそのまま眠ってしまいました。

娘と同室になってからも、抱っこする時にはどこか他人行儀で、恐る恐るお世話をしていました。お腹にいるときには可愛くてたまらず、早く顔が見たくて出産の日が待ちきれなかったのに、何かぬぐいきれない違和感がありました。けれど、そんな気持ちを我が子に持つこと自体許されないような気がして、誰にも相談できないまま退院の日を迎えました。

産後1ヶ月間は実家でお世話になることにしていたのですが、とにかく母親としての責任を果たしていくうちに、娘に対する愛情も自然に湧くだろうと思い、産後の疲労が抜けない体に鞭を打って、必死に娘の世話をしたのです。

けれど、初めての育児は慣れないことばかりで、要領も悪く、何をするにもやたらに時間がかかります。私の母乳の出が悪いため、ミルクを足すことにしたのですが、娘は吐きやすく便の回数の多い子でした。

ある時は、絞り出すようにして与えた母乳を娘がすべて吐いたため、ロンパースと肌着を着替えさせ、人肌に温めたミルクを飲ませ始めたと思ったら娘が催しました。ミルクを中断してオムツを替え、その間に冷めてしまったミルクを温め直し、飲ませているとまた催す…という無限ループを続けること4時間です。

またある時は、赤ちゃんなのに寝つきの悪い娘を寝かしつけるために、2時間背中をとんとんし続け、子守唄をうたい、やっと娘がウトウトし始めたと思ったら、お腹が空いたといって泣きだしたため、また授乳タイム。

想像を絶する育児の大変さに、私は徐々に追い詰められていきました。出産前は夫婦仲が良く、私がひたすら夫に頼っているような夫婦関係だったのですが、その頼りになるはずの夫も、子どもが産まれてから明らかに態度が変化したことも、私に追い打ちをかけました。

その頃、夫は仕事で大きなプロジェクトを任されていて、そのプレッシャーで完全に余裕を失くしていたようです。あまり娘と触れ合うこともなく、私が育児の大変さを訴えても、まったく取り合ってくれません。それどころか「君は家にいて、のんびりできて良いよね」と言う始末です。

出産後、ちょうど1ヶ月が経ったころ、娘の寝顔を見ていた私の脳裏に突然「乳幼児突然死症候群」という言葉が浮かびました。“もし、娘がいま突然死んでしまったら、私は楽になれるのに”とぼんやりと考えて、自分が考えた事の恐ろしさに我に返り、その日のうちに心療内科に駆け込んだのです。診断はすぐに下りました。病名は「産後うつ病」。

その病名を聞いた途端、私は「母親失格」の烙印を押されたような気持ちになりました。
出産でホルモンのバランスが大きく崩れたために起こる病気です、と医師は説明してくれましたが、頭では理解できても、私の心はその病気を許してくれなかったようです。

結局、自宅には戻れずに実家で療養を続けることになりましたが、日に日に病状は悪化していきました。たびたび過呼吸の発作に襲われ、娘の面倒も両親に任せきりになり、とうとうその状況に絶えられなくなった私は、夫に“死にたい”と訴えました。返ってきた答えは「じゃあ、死ねば?」

次の日から、私は1日の大半を眠って過ごすことになります。私にはこの頃の記憶は殆どありません。(寝ていたので当たり前ですが)
最近になって母から聞いた話しですが、当時の母は孫の面倒を見ながら、食事も摂らず真っ青な顔で寝ている私が息をしているかどうか、時々確かめていたそうです。

そんな最悪とも言える状況からどうやって私が産後うつ病から回復したのか。

家族の協力ももちろん大きかったのですが、ある女性との出会いが私を救ってくれました。その人は市の保健師さんで、産後うつ病を患った私をサポートするために、市から派遣されてきた人でした。保健師さん自身、出産後に産後うつ病を患った経験があり、とても親身になって話を聞いてくれました。

集団予防接種に娘を連れて行った際には、私に付き添ってくれ、優しく背中をなでてくれたり、夏場の暑い時期だったのでうちわで私の顔を扇いでくれたり。その背中に添えられた手の温か味を未だに忘れることができません。千の言葉よりも、その手の温かさが保健師さんの優しさを物語っているようでした。

「お母さんは、赤ちゃんと同じ家にいて、同じ空気を吸っているだけで良いんですよ。赤ちゃんに何をしてあげるのかではなくて、赤ちゃんと一緒にいてあげることが一番大切なんです」という保健師さんの言葉にどれだけ救われたか分かりません。

私が薬の過剰摂取をしたときに、母が真っ先に連絡したのは保健師さんです。「ひとつだけお願いがあります。今すぐ病院を受診してください」と、いつもは穏やかな保健師さんの切羽詰まった声を電話口で聞いて、私は重たい体を引きずるようにして病院に行き、結局大事に至らずに済みました。

後日、保健師さんにお礼を言うために市役所を訪ねた時に、笑顔とともにかけられた言葉は「あちらの世界に行くには早すぎますよ」です。私はその一言を聞いてどうしようもなく泣けてきました。「私は死にたくなんかないんだ。本当は生きたいんだ」と強く思ったのです。

死にたくなければ生きるしかない、と腹を括った私は、「できないことはできないと開き直る」、「他のお母さんと比べない」、「いつか必ず病気は治る」という3つのことを、自分に言い聞かせました。

そして娘がひとりで歩けるようになった頃、私の産後うつ病との戦いは終わりました。それに合わせるかのように、保健師さんの転勤が決まったのです。最後にお会いした時に「〇〇さんと会ってお話ししていると、いつも癒やされました。ありがとうございました」と言われました。私の何が保健師さんの癒しになったのか、さっぱりわかりませんが、信頼している保健師さんの言葉です。素直に受け取ることにして、私からもお礼を言いました。涙はありませんでした。

病気の間は、永遠に赤ちゃんのまま成長しないのではないかと思われた娘も、今は小学6年生です。来週には私立の中学受験を控えていますが、特にナーバスになることもなく、なかなか男前でたくましい女子に育っています。保健師さんがいまの娘の姿を見たら、きっと目を丸くした後、あの優しい笑顔で“本当に良かったですね”と声を掛けてくれる気がします。

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